小さいときのことですが、ある朝早く、私は学校に行く前にこっそり一寸ガラスの前に立ちましたら、その蜂雀が、銀の針の様なほそいきれいな声で、にわかに私に言いました。
「お早う。ペムペルという子はほんとうにいい子だったのにかあいそうなことをした。」
その時窓にはまだ厚い茶いろのカーテンが引いてありましたので室の中はちょうどビール瓶のかけらをのぞいたようでした。
宮沢賢治『黄いろのトマト』より。
カメラを持つと、とたんに目の前の景色が変わって見える。シャッターを一回切っただけで、薄い皮を一枚はいだように、ぱっと変わる。
ありていに言ってしまえば、風景の異化効果。
見慣れた、ありふれたものだった目の前の事物や風景が、撮る対象となることで新鮮なものに見えてくる。
もちろん、変わらないこともある。
たとえば、風景のなかで最初から注目されているようなものを撮るとき。観光名所で著名な立像や建築物を撮ったり、季節に合わせて桜や紅葉を撮ったり、あるいは記念撮影でシャッターを押すような場合。それでは、図と地は反転しない(あるいは、あらかじめ反転してしまっている)。
カメラを持つことで、日常を異化する。それは、気づき、と言い換えることができることもできるかもしれない。
ところが、しばらくカメラでいろいろ撮っていると、既視感に襲われることがあるだろう。いわば、自己模倣。以前、撮った空き地と同じような空き地をまた撮ってしまう。同じような角度で。
またまた、ありていに言ってしまうと、非日常の日常化。日常を非日常化したものがまた日常となる。気付き、はいっそう難しくなる。自己模倣をするというのは、スタイルが確立されるということなのかもしれないけれど。
ところで、既視感をもとにしてシャッターを切るのは悪いことではないと思う。人が物事の意味を把握するのは二度目に遭遇するときだ、という話もあるぐらいだ。もし、言葉以前に映像としての記憶があって、それが言葉の習得とともに記憶の底にしまわれてしまったとしたら。
幼年時代を回顧するとき、その光景は「ビール瓶のかけらをのぞいたよう」な、懐かしい光に包まれている。