2014年3月31日月曜日

スマイル・イン・ビジネス

心から笑っていないとき、目元を見れば分かってしまうという。
口角だけあげて目はぴくりともしていない、笑っているのに目が怖い、というあの表情。

そんなものだから、マナー講習などではその先手を打つかたちで、目から下をA4の配布資料で隠し、目で笑う練習をしていたりするものだ。

では、そのような訓練を経た人と相対するとき、私たちはどうすればよいのか?
あなたは満面の笑みを浮かべているけれど、それはビジネス上の愛想笑い? それとも、愛想なんて尽きているけれど訓練の結果、反射的に浮かぶようになった笑い?

破顔一笑、目は上方に曲がり、口は大きく開かれピンク色の歯茎までむき出しにして笑っているのに、それでも愛想を尽かしているのですか?

きみ、銀行や飲食チェーンのお姉さん方に、そんなことで恋しちゃダメだ。
彼女たちはホスピタリティに関しては、異様なほどに高いプロ意識の持ち主。
お客様、あるいはビジネスパートナーであったとして、それ以上でもそれ以下でもない。

ところで、鷲田清一は顔について次のように書いている。

 そういうせまりくる〈顔〉を、対象として見られる顔面から区別しておこう。他人が他人としてわたしたちにせまってくる現象を〈顔〉の現象と呼ぶならば、〈顔〉はかならずしも顔面の現象にかぎられないのである。(中略)たとえば、わたしたちは他人のまなざしに傷つく。蔑むようなまなざしにも、じぶんから背けられたまなざしにも傷つくが、しかしまた、他人のなにげないことばにも傷つく。しぶんを無視する人の頸筋の後ろ側や背を向けたひとのその服越しの背中にも傷つく。いらだたしげにゆさぶらられている指や脚にも、だ。それらがすべて〈顔〉だと言ってよい。(『しぶん・この不思議な存在』講談社現代親書、1996年
 
たとえ顔一面にスマイルがあふれ返っていたとしても、声やただずまい、さらには服装が笑っていないなんてことはあるのだろう。しかし、相手はプロ中のプロ。そんなことさえすっかりお見通しなのだから、打つ手がないことは最初から決まっていたのだ。

…というわけで、桜もほどよく開花して、浮かれ気分もつかの間の春の嵐も過ぎた今日、いかがお過ごしですか?

2014年3月23日日曜日

アクセといったりするらしい

女の人が指輪や腕輪やネックレスやそれに類するものを身に付けているのを見ると、ドキッとして、それから少し気持ちが沈んでしまうのは、きっとその人のことが気になるからだろう。

それから、僕は意識的であれ、無意識的であれ、そのアクセサリーから何かを読み取ろうとする。

それは、社会的なメッセージなのか。
(…つまり、結婚指輪のような)

それとも、自己表現?
(…つまり、私はこういう人に見られたいとか)

あるいは、自分にハッパをかけているとか。
(モードを切り替えるスイッチのようなものとして)

そのアクセサリーは、あなたの身体の一部ですか?
(どっかのメガネ屋のCMのようだ…)
もし、答えがイエスだとしたら、僕はそのアクセサリーをその人と同じくらい大切に扱わないといけないことになる。たとえそれが誰から贈られたものであったとしても……

シルバーは本当に保守的なのか? じゃあ、ゴールドはどうなる?

まったくうといので、アクセサリーのそれぞれについて微細をうがって書くことができないのが残念ではあるが、これだけは言っておきたい。

こちらもうといなりに、ちゃんと見ているのだよ。

2014年3月16日日曜日

かつて写メールと呼ばれたもの

最近、何げに世間並みに消費づいている。

消費税増税のファーストエピソード、「3%増悪」を前にしてというわけでは決してないのだ、と自分には言い聞かせている。いや、実際のところ、ここにきて電化製品を中心に身の回りのものにガタがきだしているのは事実なのだ。

たとえば、洗濯機。たとえば、Mac。

というわけで、今日(日曜)は、Mac mini(early 2009)の内蔵ハードディスクドライブを自力で換装しながら、新しい洗濯機が届き、大学進学以来十数年軒を同じくした(最初は玄関先だったけれど)洗濯機が引き取られていくのを待つ一日だった。ここで、洗濯機と私、というテーマで一席ぶつこともできなくはない(しないけど)。

Macのデータを移行しているときに、昔撮った写真が目にとまった。8年くらい前の携帯電話で撮った写真、いわゆる写メールだ。画質、サイズともに今のスマートフォンに比べれば、というか比べものにならないほど貧弱で、携帯のディスプレイで表示し、携帯のメールに添付することのみをほぼ目的とした画像。

カメラ機能がついた携帯電話を始めて手にしたとき、うれしくて、目的もなくそこら中を撮ってまわったものだ。僕自身、ちょうど写真に興味が出始めたころだったのかもしれない。ポラロイドを手にしたときも、同じように身の回りのものを撮りまくった。撮ったものがすぐディスプレイされる喜び。

それで今日、Macに入っていた写メールをながめていて、なつかしさとともに、胸をこみ上げる何かがあった。祖父の死の間際、親族が集まって「待っている」のをよそ目に、電車を乗りついで行った海で撮った写真。大学の図書館の入り口に差す西日。アルバイトをしていた映画館の窓からみえる雪につつまれた街並み。

撮影者がある種の感情を呼び起こされるのは、写真であれば当然だといえばそれまでなのだが、僕は写メールをながめていて、そうした写真の特性だけでは説明できないものを感じていた。そう、写メール自体がなつかしいのだ。

写真がほぼデジタルに移行し、もう「それは、かつてあった」ではなくなったとか、「ディスプレイ上では、常に現在であり続ける(動画の一時停止のようなものとして)」だとか、言われてきた。少なくとも、数年前は言われていたと思う。

けれど、画像はいつ見られても同じように受け取られるわけではなく、フォーマットとともに古び、それが過去のしるしとして画像に刻まれることになるんじゃないか。十年にも満たない昔のテクノロジーがもう、なつかしい。データであったとしてもその固有性、というか手触り、というかモノとしての存在感、みたいなものが失われるわけじゃないんだ。そんなことを思った日曜の午後だった。

ところで、写メールってもう死語なんだろうか?

2014年3月8日土曜日

「雨だれ」

夜が降りてくる。昨日・今日・明日と時間をぱっかりとわけてみたところで、今日が昨日に、明日が今日になるのを漫然と眺めているだけなのだった。非干渉の非没入。

花を活けてみたい。色とりどりの花。名前はよくわからないけれど、淡い黄色に白、そこに深紅やピンクが差すように。

花を咲かせてみたい。たとえば、さっと差し出す花束。それは、ぱっと瞬時にまわりを照らす明かり。感情表現としてのプレゼントに、これ以上のものはない気がする。

夜は降りてくる。あけない夜はなく、やまない雨はないというが。
SFなんかではもう何年も雨が降り続いているなんてこともある。

ショパンの「雨だれ」という曲を思い浮かべる。
雨どいをつたって、土を、アスファルトを、私の(あなたの?)靴のつま先を打つ。規則正しく音を立てて。

底を打ち続ける雨だれのビートの起伏から、感情を読み取ることはできる。
ひとまとまりのストーリーを読むこともできる。

雨がやんでも、ストーリーは続くのだけれど。


2014年3月2日日曜日

雪のこと

道のあちらこちらに残っていた雪は、いつのまにか消えてしまった。
暑さ寒さは一進一退するが、薄汚れた残雪はもう戻ってこない。

朝、駅に向かう途中に、雪とたわむれる小学生たちを見るのはなかなか楽しかった。2、3人で雪を踏み踏み楽しげに登校する少年少女。一方で、道の端に積み上げられ、氷のように固くなってしまった雪に、いらだたしげに蹴りを入れながら歩く少年。僕にもこんな時があったんだ、と思ってみたりもする。

キックキックトントン、キックキックトントン…

『雪渡り』は宮沢賢治の童話のなかでもかなり好きな作品だ。
賢治特有の擬音の使い方はさることながら、その独特なリズムにのせられて読んでいくと、小さな兄妹が狐の子供たちと楽しく会話するかわいらしい姿が浮かび上がってくる。

しみ雪しんしん、かた雪かんかん。

雪を踏みしめながら歩くとき、キックキックトントンと口ずさみながら(心の中で)歩くのが僕の定番のスタイルなのだが、そういえば今年はすっかり忘れていた。

今年、東京に降った雪は記録的なもので、かつ直後に雨が降るような目茶苦茶なものだった。その雪の影響をもろに受けた僕は(予定のキャンセル、動かなくなった電車内で一泊…)、そんなこと思うような余裕がなかったのかもしれない。

もっとも、固くなった雪が溶けることもなく、そのうえに新たに雪が降り積もっていく東北の雪と東京の雪は全然違うのだろうけれど。

東京では今、雨が降っている。