2014年12月5日金曜日

ちゃんぽん長崎

フードコートと称するスーパーの地下1階の飲食店が集まった一角で、長崎ちゃんぽんを食べていた。

子供が泣いていた。3歳にも満たないくらいの女の子。その側で母親とその友人(?)の女性二人が気にせず談笑している。女の子はソファの上によじ登ったところを無理やり下ろされて叱られ、不機嫌になっているのだ。どうやったらその子に、なぜソファに登ったらいけないか納得させることができるのか、僕には分からない。

女の子は警報を鳴らすように、泣き叫んではやめ、泣き叫んではやめを繰り返した。わたしはいま絶望している!と全生命を使って表現していた。すぐに、別のことに興味が移って、ころっと泣くのをやめたとしても(実際にやめたのだけれど)、その瞬間のその泣きは妙に心を打つものがあった。

となりで英語の参考書を開いて、ルーズリーフに英文を書き写していた男子高校生も心を動かされていたに違いない。
いたたまれなくなった彼は、席を立って長崎ちゃんぽんを買ってきたくらいだから。

フードコートの上の階では、クリスマスカードが並べて売られていた。
こっちのカードは、ボタンを押すときよしこの夜。
こっちのカードは、ボタンを押すとJoy to the world。
子供たちが群がっているところでは、ありのままで〜が流れていた。

クリスマスにはいい思い出がない。が、悪い思い出もない。
ふつうの思い出ならいくつかある。

とりあえず、これからしばらくは、クリスマスにしか興味がない(といってみる)。

2014年10月20日月曜日

興味がない

あの返却口に何が返却されるのか気になる。

昨日の夕方近く、自分が住むマンションの自転車置き場の前で、パンクしたクロスバイクのチューブを交換していた。そこに、電動自転車を押しておばさんが入ってくる。こんにちは、と小さな声であいさつする。見たことのないおばさん。ひょっとしたらセールスの人かもしれない。相手も少しけげんそうにしていた。けれど、自転車置き場の側で後輪を丸ごと外し、タイヤからチューブを引っ張り出している姿を見て、僕がこのマンションの住人であることを疑ったりはしないだろう。

駐輪場にその電動自転車を停めたければ、どうぞ。
パンクの修理、なかなか大変そうね。
どうぞ、お構いなく。
ええ、そうさせてもらうわ。それに、私はここの住人じゃないし。

そんな会話が、音もなくすれ違っていたのかもしれなかった。けれど、お互いの関心の地平はそこまで延びることはなかった。私はあなたに興味がない。

それから、数分も経たないうちに、おばさんは別のおばさんを連れて、駐輪場から自転車を出し、去っていった。その間、僕は顔を上げることもなく、黙々とチューブの交換に励んでいた。

2014年9月15日月曜日

中央線快速東京行き

夢、というとき人は空を見上げ、欲望、というとき人は下を向く。
本音を語るときは、じっと目を見つめている。

あなたの「夢」はなに?
武蔵境のフリーペーパー「iisakaii」vol.13に、そんな質問の回答を集めたコーナーが掲載されていた。

「退職後の人生を楽しむために、若いうちに沢山働く」(10代女性)
「幸せな家庭を築き親孝行をしたい。将来は武蔵野市に住みたい」(20代男性)
「結婚して退職しパートとして働きたい」(20代女性)
「悔いなく人生を終えたい」(60代男性)

中央線で遭遇する名前も知らない人たちも、こんな夢を抱いて電車に揺られているのだろうか。毎朝毎晩、親や友人とだってしないくらい身体を密着させ合い、黙ってスマホの画面をみつめつつ運ばれていく人たち(オレ含む)。

小沢健二の曲に「戦場のボーイズ・ライフ」というのがあったけれど、通勤電車に乗っているとまさに戦場という感じ。戦場のリーマン・ライフ(〜報われる日を信じて〜)……、でも乗っているのはサラリーマンだけじゃないよね。

まあ、このアンケートには、ほかに「世界征服」といったチャーミングな回答もあったのだけれど。

2014年9月7日日曜日

あるコーヒーチェーンで

あるコーヒーチェーンで本を読んでいたら、突然わめき声が聞こえてきた。

横に長い店内の奥のほうに座っていた僕は、その声の主が誰だかわからず、きっと入り口のあたりで、誰かが痴話げんかでもしているのだろうと思っていた。しかし、それにしては女性のきんきんとした声が響くばかりだ。

しばらくしても、女性の声が止まない。僕はちょっと気になって、席から身を乗り出して入り口のほうをのぞいたが、誰かが口論している様子はなく、レジでも店員が平然と下を向いて何か作業をしている。

何かおかしいと思いつつ、漫然と店内を眺めていると、ちょうど自分の直線上に声の主を発見した。険しい顔をして、わめき続けるおばさん。だが、彼女の前には誰もいなかった。

ほっそりとした上品な佇まいのおばさんは、虚空に向かって耳障りな声で何かを訴えている。しかし、何を言っているのかはまるでわからない。

大学生くらいの男の店員がおばさんの近くにいって、声を落とすよう注意するが、おばさんはかえってエスカレートしていく。

「あやまりなさいあやまりなさあやまりなさいよーっ」
句点も読点もなくまくしたてる言葉から、そんな一節が聞こえてくる。平謝りして立ち去る店員。それからしばらくして、その店が入っている商業ビルの警備員が店内に入ってきた。

おばさんは、その警備員に対しても「おゆきなさい」だとか何だとか言って、立ち去らせようとする。

警備員はおばさんを無理やり退出させようとはせず、帽子をとって腰を落とし、目線を低くして、おばさんの言葉をひとつひとつ受け止めるように、うんうんとうなずいている。

そのやり取りが10分は続いただろうか。警備員が頭を下げ、入り口を手で示すと、おばさんは渋々といった感じで立ち上がり、店を出ていった。

警備員は店の外に出て、おばさんの後ろ姿に頭を下げて見送ると、すぐに店内に戻ってきておばさんの隣にすわっていた女性(よくずっと座っていたものだ)にも頭を下げた。

頭に白いものが混じる初老の警備員。

いやあ、なんか泣けてくるよ。
働くってこういうことなのかな。

……
離れた席から見ていた僕は、冷めたコーヒーを前にしみじみと感じ入った。
おばさんの事情も、事のきっかけもわからずじまいだったけれど。

2014年8月24日日曜日

この道はさっき来たけど

道が次の道を作る。

お盆開けから3日ほど休みをとって、北陸あたりをぶらぶらと旅した。知らない土地を歩いていると、この先はどのような道になっているのだろうと興味が尽きず、気がついたら歩きすぎてへとへとになっているなんてことがよくある。といっても、今はスマホがこれだけ普及していて、その1台1台にGoogle Mapがインストールされているのだから(おそらく)、歩行者は画面上で自分の現在位置を把握し、その道の先に何があるかを知ることができるわけで、知らない道をさまようなんてことはもう珍しいことになっているのかもしれない。

それでも、道に迷ってしまう。単に僕がバカなのか、Google Mapをあまり見ないからか、というか見ていても迷ってしまう。そして、手には駅の待合所でゲットした観光地図。観光地図というヤツは、肝心なこと(目的地までに何ブロックあるかとか、町名とか)が書かれておらず、距離感も結構好きなように伸縮されているので、その地図が目玉とするところ以外に行こうとすると、あまり役に立たない。それでも観光地図を手に歩き出す。そして迷う。

あの曲がり角を曲がればいいお店が建っているかもしれない、とか、このちょっと上り勾配の道を進んで行けば素敵な光景が目の前に広がるかもしれない、とか、ぼんやりとではあるがそんなことを考えている(に違いない)。そして、この道はどうやら間違いだったようだと気がついても、後戻りするのが惜しくなり、よし次のところを曲がって新しい道に出ようと、ついしてしまう。

こんな風に改めて文章にしてみると、まるで夢遊病者のようだ。同行者がいたら、きっといらいらして、途中で置いていかれるにちがいない。

けれど、歩いていくことで知らない道がどんどん展開していく感じ、好きなんです。

2014年8月4日月曜日

あの夏の日

自転車がびしょ濡れになってしまった。

学生であればもう夏休みなのだな、と近ごろ電車に乗っていて思う。都心の商業施設はいろんな国/郷里から来た人々でにぎわっている。片手にボストンバッグ、その反対の手には土産物を入れた紙袋。平均3袋ほど。爺さん婆さんは方言をみじんも隠そうとしない。いまや方言は礼賛される一方だ。電車のなかに大荷物を抱えた家族連れや、老人の団体が乗り込んできて、地元の電車やバスでするように(おそらく)、大声で自分たちの言葉を話す。さすがに、じぇじぇとは聞いたことがないけれど。

……
風が強くなったかと思うと、雨粒が一斉に地面を叩きつける。日本はもはや亜熱帯ではなく熱帯になったのではないかと言われて久しいが、たしかに近ごろ降る雨はみんなそんな感じだ。夕方だとか、関係ない。降れば大体、スコール。雨が地表にある様々なものを叩いて大きな音を出し、雷鳴が合いの手を入れてる感じ。駅の改札口や、スーパーの軒先や、図書館の入り口が、それが通りすぎるのを待つ人であふれるのも、もうおなじみの風景だ。

……
遠く花火の音が聞こえてくる。距離をはかるように耳を澄ませる。きっと、ここからは見えないだろう。ベランダに出ることなく、そう決めつける。花火は見るものだと思われているが、実は聴くものなんじゃないか。テレビの花火中継はなにか無粋なものを感じるけれど、ラジオで花火中継をしていたら案外、聴いてしまうかもしれない。まあ、これは一日机にかじりつき、休日を仕事でつぶした人間の負け惜しみでしかないけれど。空腹を感じて、立ち上がる。食料を買いに行こうと、財布を手に玄関の戸を開ける。

……
これは、いつかの日記。日をまたいで書かれるものも日記と呼んでいいのだろうか。あの日見た光景と、あの日あった出来事を未分化のまま書き連ねても。結局、あの夏の日というあいまいな呼び方をするしかない、一日の記憶が残ることになるのだとしたら。

2014年6月29日日曜日

カメラを持たなかったとしても

 小さいときのことですが、ある朝早く、私は学校に行く前にこっそり一寸ガラスの前に立ちましたら、その蜂雀が、銀の針の様なほそいきれいな声で、にわかに私に言いました。
「お早う。ペムペルという子はほんとうにいい子だったのにかあいそうなことをした。」
 その時窓にはまだ厚い茶いろのカーテンが引いてありましたので室の中はちょうどビール瓶のかけらをのぞいたようでした。

宮沢賢治『黄いろのトマト』より。

カメラを持つと、とたんに目の前の景色が変わって見える。シャッターを一回切っただけで、薄い皮を一枚はいだように、ぱっと変わる。

ありていに言ってしまえば、風景の異化効果。
見慣れた、ありふれたものだった目の前の事物や風景が、撮る対象となることで新鮮なものに見えてくる。

もちろん、変わらないこともある。
たとえば、風景のなかで最初から注目されているようなものを撮るとき。観光名所で著名な立像や建築物を撮ったり、季節に合わせて桜や紅葉を撮ったり、あるいは記念撮影でシャッターを押すような場合。それでは、図と地は反転しない(あるいは、あらかじめ反転してしまっている)。

カメラを持つことで、日常を異化する。それは、気づき、と言い換えることができることもできるかもしれない。

ところが、しばらくカメラでいろいろ撮っていると、既視感に襲われることがあるだろう。いわば、自己模倣。以前、撮った空き地と同じような空き地をまた撮ってしまう。同じような角度で。

またまた、ありていに言ってしまうと、非日常の日常化。日常を非日常化したものがまた日常となる。気付き、はいっそう難しくなる。自己模倣をするというのは、スタイルが確立されるということなのかもしれないけれど。

ところで、既視感をもとにしてシャッターを切るのは悪いことではないと思う。人が物事の意味を把握するのは二度目に遭遇するときだ、という話もあるぐらいだ。もし、言葉以前に映像としての記憶があって、それが言葉の習得とともに記憶の底にしまわれてしまったとしたら。

幼年時代を回顧するとき、その光景は「ビール瓶のかけらをのぞいたよう」な、懐かしい光に包まれている。

2014年6月8日日曜日

東京地方に雨が降って

愛する人にたいして行う数々の行為、それは金銭や物品の贈与に限ったことではなく、ほんの心配りや見逃しや陰ながらの奉仕も含めてのことなのだけれど、それらがすべて無駄だと分かったとき、つまりふられたりなんかしてもう自分のほうへ相手の心が向かうことがないと悟ったときに、その数々の行為が不良債権に変わってのしかかり、愛が憎悪へと変質するんじゃないかな、まことに見苦しいことなのだけれど、別れ際に誕生日に買ってやったあれを返せこれを返せだとか、あんなによくしてやったのになどと口論になったりすることがあるのも(自分にそんな経験はまあ、ないのだけれど)そのためなんだろうな、などと考えながら雨の東京をいろいろと歩いた。

ライブを観にいったり、髪を切りにいったり、あてどなく散歩したり…

「TOKYO is YOURS」と、ある民家のボイラーにグラフィティがしたためられているのを見て、思わず写真を撮ってしまった。そして、「…and the WORLD is MINE!」と叫んだとか叫んでないとか(叫んでないけど)。

2014年5月31日土曜日

夕やみに風たちぬれば

夕やみに風たちぬればほのぼのと躑躅の花はちりにけるかも

斎藤茂吉『赤光』より。

月末。
冷房が効きすぎた中央線快速東京行きに乗る。

礼服姿のご老人グループが陣取る三人掛けシートのすぐ横では、Tシャツに七分丈パンツの男子二人組が女の子のわきの話で盛り上がる。

30度以上だと真夏日。35度以上だと猛暑日。
つまり、今日は真夏なのだという。

一切の予定は滞り、整備したばかりのMacは起動すらしない。

街に出れば、歩くのもやっとなほどの人出。
暑い暑い、と口にはするものの、皆笑顔だ。

2014年5月17日土曜日

疲れ目、痛み目に。

目が疲れる。目の運動を定期的にしようと思うのだが、公衆の面前ではなかなか実施しづらい。たとえば、上に10秒、下に10秒、右に…と満員電車の中、面前で実行されたら、なんとも言えない気分になるのではないか。だから電車の中でやるときは、目をつぶってやることになる(結局やっている)。

目の運動として次に考えられるのが、目を寄せること。目と目の間、鼻梁(と呼ぶほど立派なものはないが)の近くにまで親指を近づけ、それに両目の焦点を合わせる。焦点があったら、ゆっくりと指を顔から離していく。もちろん目は離れていく指を追っている。それを3セット、できれば一日3回。

僕はもととも斜視の傾向があって、左目だけが極度に疲れていることがあり、そういう時はだいたい右目だけでPCのモニタや本を集中して見てしまっている。だから両目で焦点を合わせるトレーニングは、自分にとてもあっている。また、離れていく指を目で追っていくことは、ピントを調節する筋肉の緊張をほぐす効果がある(はず)なので、近視の悪化を食い止めるのにも効果的だろう。

ただ、僕がこれまで生きてきたなかで聞きかじってきた、こういうトレーニングを実践するときは、だいたい目が疲れていたり、痛んだていたり、遠くのものが見えづらかったりするときで、要するに継続して行っていないため、実際の効果のほどは定かではない(Sorry!)。

継続は大事!これで効果が出るとイイね!

2014年4月26日土曜日

触れること、触れないこと。

「菊地成孔の粋な夜電波」が金曜深夜12時に引っ越して以来、すっかり生活のリズムが狂ってしまった。というより、いままで一度もまともに聞けたことがない。金曜の夜、どこかに遊びに出かけるでもなく、毎週おとなしく8時頃には帰ってきているのだが、なぜか10時を過ぎたあたりになると急激に眠くなってしまい、目を覚ましたときにはバナナマンのシュールな掛け合いが流れているという始末。

これまで、ほとんどが日曜の夕方から夜にかけて放送されていたので、僕はこの放送を軸に週末の行動を考え、この放送を聞くことによって一週間の区切りをつけていたのだった。それが金曜のジャスト・ミッドナイトに移ってから、一度もまともに聞けていないから……、きっと普通に考えられるよりずっと心身に不調を来しているはず。

ポッドキャストでは一応、追ってはいるけれど、無音のしゃべりではやはり味気がないのだ。さわりの口上も聞けないし。youtubeで紹介された曲を流しつつ聞くというのもありかもしれないけれど、まだやってない。

ちなみに、この番組はスタート時からずっと聞いているけれど、ジャズに対する関心はどれくらい高まったかな? ロイヤルホストには今度行こうと思う。

あ、ちなみにラジオの話です。

2014年4月8日火曜日

人のいない小説

人の出てこない小説というのがある。
それを何と呼んだか、かつて本で目にした気がするけれど、覚えていない。

誰かが誰かを追い求める。誰かと誰かが出会う。そして別れる。
推理ものにボーイ・ミーツ・ガールに、それから…
人は人の出てこない小説を求めるだろうか。

人の出てこない小説。たとえばカメラアイで、廃屋を定点観測。1日が1秒になるように早送りし、ゆっくりと廃屋が崩れゆくさまを描写する。そんな小説があるだろうか。

人の出てこない小説。たとえば宇宙の知られざる姿を描く。ビッグバン以前の世界、宇宙の外に続く空間、逆回転する銀河系。それは小説だろうか。

人の出てこない小説。たとえば動物だけで繰り広げられる物語。宮沢賢治の童話なんかにはわりとあるんじゃないか。けれど、擬人化された動物は人と何が違うだろう。たしか、植物しか出てこない話もあったような気がするけれど…

そもそも、語り手は人にカウントしなくてよいのだろうか。
語り手は書き手と同一か。否。
では、誰なんだろう。この言葉を紡ぎだす存在は。

人の出てこない小説をつきつめると、語り手のいない小説になる気がする。
グーグルのような検索エンジンがランダムにひろいあげてきた文章の束。
あるいは、文章を書いたカードを何通りも用意し、シャッフルして選び、物語を作りあげる。

それは小説か、と問われれば、それは小説だと言える気がする。
では、そこに人はいないか、と問われれば、やはりそこには人がいるだろう。

なぜなら、そこに人を読み取ってしまうだろうから。
結局、人は読み手のなかにいるのだろう。
物語が読み手のなかで像を結ぶのと同じように、人の姿も読み手のなかに現れる。

と、もっともらしく結んでみたが…

2014年3月31日月曜日

スマイル・イン・ビジネス

心から笑っていないとき、目元を見れば分かってしまうという。
口角だけあげて目はぴくりともしていない、笑っているのに目が怖い、というあの表情。

そんなものだから、マナー講習などではその先手を打つかたちで、目から下をA4の配布資料で隠し、目で笑う練習をしていたりするものだ。

では、そのような訓練を経た人と相対するとき、私たちはどうすればよいのか?
あなたは満面の笑みを浮かべているけれど、それはビジネス上の愛想笑い? それとも、愛想なんて尽きているけれど訓練の結果、反射的に浮かぶようになった笑い?

破顔一笑、目は上方に曲がり、口は大きく開かれピンク色の歯茎までむき出しにして笑っているのに、それでも愛想を尽かしているのですか?

きみ、銀行や飲食チェーンのお姉さん方に、そんなことで恋しちゃダメだ。
彼女たちはホスピタリティに関しては、異様なほどに高いプロ意識の持ち主。
お客様、あるいはビジネスパートナーであったとして、それ以上でもそれ以下でもない。

ところで、鷲田清一は顔について次のように書いている。

 そういうせまりくる〈顔〉を、対象として見られる顔面から区別しておこう。他人が他人としてわたしたちにせまってくる現象を〈顔〉の現象と呼ぶならば、〈顔〉はかならずしも顔面の現象にかぎられないのである。(中略)たとえば、わたしたちは他人のまなざしに傷つく。蔑むようなまなざしにも、じぶんから背けられたまなざしにも傷つくが、しかしまた、他人のなにげないことばにも傷つく。しぶんを無視する人の頸筋の後ろ側や背を向けたひとのその服越しの背中にも傷つく。いらだたしげにゆさぶらられている指や脚にも、だ。それらがすべて〈顔〉だと言ってよい。(『しぶん・この不思議な存在』講談社現代親書、1996年
 
たとえ顔一面にスマイルがあふれ返っていたとしても、声やただずまい、さらには服装が笑っていないなんてことはあるのだろう。しかし、相手はプロ中のプロ。そんなことさえすっかりお見通しなのだから、打つ手がないことは最初から決まっていたのだ。

…というわけで、桜もほどよく開花して、浮かれ気分もつかの間の春の嵐も過ぎた今日、いかがお過ごしですか?

2014年3月23日日曜日

アクセといったりするらしい

女の人が指輪や腕輪やネックレスやそれに類するものを身に付けているのを見ると、ドキッとして、それから少し気持ちが沈んでしまうのは、きっとその人のことが気になるからだろう。

それから、僕は意識的であれ、無意識的であれ、そのアクセサリーから何かを読み取ろうとする。

それは、社会的なメッセージなのか。
(…つまり、結婚指輪のような)

それとも、自己表現?
(…つまり、私はこういう人に見られたいとか)

あるいは、自分にハッパをかけているとか。
(モードを切り替えるスイッチのようなものとして)

そのアクセサリーは、あなたの身体の一部ですか?
(どっかのメガネ屋のCMのようだ…)
もし、答えがイエスだとしたら、僕はそのアクセサリーをその人と同じくらい大切に扱わないといけないことになる。たとえそれが誰から贈られたものであったとしても……

シルバーは本当に保守的なのか? じゃあ、ゴールドはどうなる?

まったくうといので、アクセサリーのそれぞれについて微細をうがって書くことができないのが残念ではあるが、これだけは言っておきたい。

こちらもうといなりに、ちゃんと見ているのだよ。

2014年3月16日日曜日

かつて写メールと呼ばれたもの

最近、何げに世間並みに消費づいている。

消費税増税のファーストエピソード、「3%増悪」を前にしてというわけでは決してないのだ、と自分には言い聞かせている。いや、実際のところ、ここにきて電化製品を中心に身の回りのものにガタがきだしているのは事実なのだ。

たとえば、洗濯機。たとえば、Mac。

というわけで、今日(日曜)は、Mac mini(early 2009)の内蔵ハードディスクドライブを自力で換装しながら、新しい洗濯機が届き、大学進学以来十数年軒を同じくした(最初は玄関先だったけれど)洗濯機が引き取られていくのを待つ一日だった。ここで、洗濯機と私、というテーマで一席ぶつこともできなくはない(しないけど)。

Macのデータを移行しているときに、昔撮った写真が目にとまった。8年くらい前の携帯電話で撮った写真、いわゆる写メールだ。画質、サイズともに今のスマートフォンに比べれば、というか比べものにならないほど貧弱で、携帯のディスプレイで表示し、携帯のメールに添付することのみをほぼ目的とした画像。

カメラ機能がついた携帯電話を始めて手にしたとき、うれしくて、目的もなくそこら中を撮ってまわったものだ。僕自身、ちょうど写真に興味が出始めたころだったのかもしれない。ポラロイドを手にしたときも、同じように身の回りのものを撮りまくった。撮ったものがすぐディスプレイされる喜び。

それで今日、Macに入っていた写メールをながめていて、なつかしさとともに、胸をこみ上げる何かがあった。祖父の死の間際、親族が集まって「待っている」のをよそ目に、電車を乗りついで行った海で撮った写真。大学の図書館の入り口に差す西日。アルバイトをしていた映画館の窓からみえる雪につつまれた街並み。

撮影者がある種の感情を呼び起こされるのは、写真であれば当然だといえばそれまでなのだが、僕は写メールをながめていて、そうした写真の特性だけでは説明できないものを感じていた。そう、写メール自体がなつかしいのだ。

写真がほぼデジタルに移行し、もう「それは、かつてあった」ではなくなったとか、「ディスプレイ上では、常に現在であり続ける(動画の一時停止のようなものとして)」だとか、言われてきた。少なくとも、数年前は言われていたと思う。

けれど、画像はいつ見られても同じように受け取られるわけではなく、フォーマットとともに古び、それが過去のしるしとして画像に刻まれることになるんじゃないか。十年にも満たない昔のテクノロジーがもう、なつかしい。データであったとしてもその固有性、というか手触り、というかモノとしての存在感、みたいなものが失われるわけじゃないんだ。そんなことを思った日曜の午後だった。

ところで、写メールってもう死語なんだろうか?

2014年3月8日土曜日

「雨だれ」

夜が降りてくる。昨日・今日・明日と時間をぱっかりとわけてみたところで、今日が昨日に、明日が今日になるのを漫然と眺めているだけなのだった。非干渉の非没入。

花を活けてみたい。色とりどりの花。名前はよくわからないけれど、淡い黄色に白、そこに深紅やピンクが差すように。

花を咲かせてみたい。たとえば、さっと差し出す花束。それは、ぱっと瞬時にまわりを照らす明かり。感情表現としてのプレゼントに、これ以上のものはない気がする。

夜は降りてくる。あけない夜はなく、やまない雨はないというが。
SFなんかではもう何年も雨が降り続いているなんてこともある。

ショパンの「雨だれ」という曲を思い浮かべる。
雨どいをつたって、土を、アスファルトを、私の(あなたの?)靴のつま先を打つ。規則正しく音を立てて。

底を打ち続ける雨だれのビートの起伏から、感情を読み取ることはできる。
ひとまとまりのストーリーを読むこともできる。

雨がやんでも、ストーリーは続くのだけれど。


2014年3月2日日曜日

雪のこと

道のあちらこちらに残っていた雪は、いつのまにか消えてしまった。
暑さ寒さは一進一退するが、薄汚れた残雪はもう戻ってこない。

朝、駅に向かう途中に、雪とたわむれる小学生たちを見るのはなかなか楽しかった。2、3人で雪を踏み踏み楽しげに登校する少年少女。一方で、道の端に積み上げられ、氷のように固くなってしまった雪に、いらだたしげに蹴りを入れながら歩く少年。僕にもこんな時があったんだ、と思ってみたりもする。

キックキックトントン、キックキックトントン…

『雪渡り』は宮沢賢治の童話のなかでもかなり好きな作品だ。
賢治特有の擬音の使い方はさることながら、その独特なリズムにのせられて読んでいくと、小さな兄妹が狐の子供たちと楽しく会話するかわいらしい姿が浮かび上がってくる。

しみ雪しんしん、かた雪かんかん。

雪を踏みしめながら歩くとき、キックキックトントンと口ずさみながら(心の中で)歩くのが僕の定番のスタイルなのだが、そういえば今年はすっかり忘れていた。

今年、東京に降った雪は記録的なもので、かつ直後に雨が降るような目茶苦茶なものだった。その雪の影響をもろに受けた僕は(予定のキャンセル、動かなくなった電車内で一泊…)、そんなこと思うような余裕がなかったのかもしれない。

もっとも、固くなった雪が溶けることもなく、そのうえに新たに雪が降り積もっていく東北の雪と東京の雪は全然違うのだろうけれど。

東京では今、雨が降っている。

2014年2月16日日曜日

青蛙おのれもペンキぬりたてか

今日、ユリイカの最新号を読んでいて、芥川龍之介(俳号は餓鬼)によるこの俳句に元ネタがあったということを知り、軽く衝撃を受けている。元ネタはルナールの『博物誌』。ネットで調べてみると、そのようなことはもう周知の事実のようで、なんというか。

この句が初夏あたりに詠まれたものだとしたら、雪降るつもるこの時期に取り上げるのは全くもって季節感のない愚かな行為なのかもしれない。季節感。日本では(日本人は、とは言いたくない)俳句を詠まずとも、日々の生活のなかでとても大切にされている感覚で、なかば義務めいたところもある。

スーパーの幟を見ていても、それはよく分かる。クリスマスケーキに鶏のもも肉の照焼きにと大々的にクリスマス商材を売り出していても、25日を過ぎてまだ店頭に出していたら野暮で愚かだと思われてしまう。正月が過ぎると恵方巻きを食べましょう(食べないなんてナシですよ!)とばかりにチラシやポスターで予約を訴えかけ、七色の具材を入れた太巻きを頬張るよう、なかば強制的に迫ってくる(情報とは命令のことである、と書いた哲学者もいたが)。関西地方にある僕の実家では、節分になると太巻きを食べる習慣があったが、それを恵方巻きと言ったかは記憶が定かでない。

とりとめがなくなってしまったが、僕が今回書き留めておきたかったのは、芥川による上記の句が作家本人の独創ではなかったということである。作家というのは知れば知るほどそのイメージに人間味が加わっていくということなのか、なんなのか。そのこと自体は、決して悪いことではないのだけれど。

ところで、俳句というのは写真に似ていると僕は常々思っている。なぜカメラや写真が日本でこんなに隆盛し、春になれば桜、秋になれば紅葉の写真が大量に生成されるのか。その理由の一端がここにあるように思うのだが、そのことについて考えると本当にとりとめがなくなってしまいそうなので、今回はこのあたりにて擱筆。

2014年2月11日火曜日

散歩追考

パーカーを着て、その上に内側がフリース、外側がコットンとポリエステルの混合生地のブルゾンを羽織る。外は限りなく寒い。筋トレのように毎日を積み重ねていける人には、このようなどうしようもなく気持ちのふさぐ、雪が積もったあとの曇り空の一日でもなんてことないのだろう。うたかたの日々、ではないが、ただ泡がはじけるように一日一日をやり過ごす人間にとって、こういう日はちょっとこたえるものだ。まして、それがビールの泡ともなれば、もう目も当てられない。

散歩はいい。まず目的地を決める必要がないから気が楽だ。見慣れた道を歩くときは、考え事に集中することができるし、商店や家々のちょっとした変化を楽しみつつパトロールをして一仕事終えた気分にもなれる。あるラジオ番組で、久米宏と大滝詠一が仕事の定義について語っていて、物体がある地点からある地点へと動くこともひとつの仕事(単位はジュール)だと言っていたが、それにならえばこれも立派な仕事だ。

もちろん、知らない道を歩いてみるのもいい。ただし、やり過ぎないことが肝心である。僕なんかは、つい引き返すのが惜しくなってどんどん歩くうち、帰り方が分からなくなって、くたびれ果ててしまうことがある。

この前、といっても去年の九月のことだが、サンダル履きのままふらふらと夜道を歩いていたら、パトカーが寄ってきて職務質問されたあげく、軽く引ったくり犯の疑いをかけられてしまった。その犯人は白いTシャツにジーパン姿だったらしく、僕もちょうどそんな格好をしていたのだ(そんな人間そこら中にいるだろ!と思ったが、あいにくその夜はちょっと肌寒かった)。さすがに足下のサンダルを見て逃走中の犯人でないことがわかったらしく、謝って去っていたけれど、住所はしっかり聞かれた。散歩もいいことばかりじゃない。

さて、ブルゾンを羽織った僕は、自転車にまたがり、駅前のコーヒーチェーンへと向かった。散歩はその文字面とは裏腹に、大変包容力のある言葉なのだった。有意義で充実した一日の締めくくりとして、今日はビールを飲むか。

2014年2月2日日曜日

かつて、歩くことについて

かつて、歩くことについて考えていた。
じっくり考えるとか、科学的に考えるというわけではない。

歩くことと記憶。
歩くことが習慣になるにつれ、自動化する足の動きが気になっていた。
それで、やれ身体論だ、アフォーダンスだといったような本を読み、気に入った部分を見つけては悦に入っていたのだが、それっきりになっていたのだった。

道は足裏によって記憶されるのではないか。
アスファルトを踏みしめるスニーカー。こつこつと規則正しく音を立てる革靴。
何かを踏みつけたときの違和感と同時に起こるある種の罪悪感(ねこふんじゃった)。
しかし、私たちは歩いているとき、必ず何かを踏みつけているものなのだ。

一度は地図を見ながら歩き、ついで景色を確認しながら歩いた道も、気がつけば何の意識もせずに歩いてしまっている。

歩くことの身体化?
意識の外で自動的に運ばれていくという、歩くことのありよう。
考えるほどに不思議な気持ちになった。

通勤路や通学路。あるいは、病院や映画館への通い路。
そういえば中学や高校の頃は、自転車に乗って通っていたか……

でも、それならばタイヤが、それを操作する手や足の拡張として
道を記憶していた、と考えるのは無理筋だろうか。

2014年1月26日日曜日

「ダレン・アーモンド追考」をみた

東京駅から高速バスみと号に乗り、水戸へ。水戸芸術館にて「ダレン・アーモンド追考/Darren Almond — Second Thoughts」(http://arttowermito.or.jp/gallery/gallery02.html?id=374)という展示をみてきた。その感想というか、批評というほど大層なものではない、個人的なメモを残しておこうと思う。

All Things Pass

この一文が刻まれたプレートに、展示会場中で繰り返し遭遇する。すべては過ぎ行く、と入り口で渡された資料では訳されている。そして、入り口で来場者を出迎え、一斉に時を刻む壁一面のデジタル時計(表示は一部ずらされている)。月の光を利用した長時間露光の写真で知られるこの作家にとって、時間というのはやはり重要なファクターなんだと実感する。

そもそも、ビデオ・インスタレーションという表現を主に使う作家である以上、時間に対する意識がないわけがない、のかもしれない。本展でも多くのビデオ・インスタレーションをみることができたが、なかでも一番心をつかまれたのは、滋賀の比叡山で夜中に行われる荒行に同行し、カメラを回したものだった。

千日回峰行というらしい。修行僧が真っ暗闇の山中を練り歩いて、ポイントポイントで拍子木を打ち、お経を唱える姿を赤外線カメラでひたすら追いかける。ちなみに、展示の構成はというと、来場者は手前に置かれたソファに座るように促され、それ以上前には行かないように指示される。目の前には6面ほどのスクリーンが楕円上に180度展開されており、正面を向くと視界がスクリーンで覆われるようになっている。一番奥の細長いスクリーンでは延暦寺(たぶん)で護摩を焚き、読経する僧侶の姿が映し出される。その他のスクリーンでは、山中を行く修行僧の後ろ姿と同時に、その僧の周りに広がる(と思われる)林や地面などが映し出され、「映像のキュビズムや〜」という身も蓋もない感想が出てくるしかけとなっている。

ソファに座り、じっと対峙していると、だんだんと没入し、漆黒に包まれた木々や地面を踏みしめる音が身に迫ってきて、恐ろしくなってくる。ただ、現実のリアルな追体験だと思っていると最後にはしごを外されることになる。木々が途切れた開かれた場所で石製のベンチのようなものに腰かけ、お経を唱える場面。そこで、僧を横や後ろからとらえた映像と同時に、僧が立ち去った後(あるいは来る前?)のベンチの様子が映し出されるのだ。

多視点ということになると、文学部出身の身としてはつい、芥川の薮の中!と思ってしまうのだが、そこに時間軸を加えて「多時間性」(なんて言葉はないだろうけど)を織り込んでくるとは。ここに、なにかがあるな。考えをめぐらせてはみるけれど、すぐに言葉にしてしまわず、自分のなかである程度寝かせて、醸成させたほうがよいのかもしれない。

最後に、日本の桜を写した写真のシリーズにも触れておきたい。これも夜中に長時間露光したものかな、と思っていると、どうも違うらしい。よく見ると、花びらがぶれていない。僕の予想では、昼間にシャッタースピードを速くして(絞りもしぼって)撮影し、超露光不足にしたネガを増感現像して、そこからプリントしたんじゃないかと思うのだけれど、実際どうなんだろう?

2014年1月19日日曜日

粗食であること

粗食であることを今さら恥じてみてもはじまらない。

お前はいかにも食事に関心なさそうやもんな、などと言われると、なにを、と思うのだが、やはりそういう面もあるのかもしれない。

加工することの喜び、わかります。僕も大学に入りたてのころは、オーブンレンジでチャーシューを焼いてみたりもした。けれど、時も思いもながれにながれ、行き着いた先は、カレーに焼きそば、たまに蕎麦。

腕によりをかけた料理を食べる喜び、わかります。けれど、お店に入るのもなかなか面倒くさかったりする。腹をクチクするだけの食事が悲しいのはわかっているけれど、帰りの駅でおにぎりを買って済ませてしまうことだってある。

料理が一番楽しいのってやっぱり誰かのために作るときだよね、などと言われると、なにを、と思うのだが、やはりそういう面もあるんだろうな。

料理で一番何が好き? と聞かれたとき、思わず口を出たのは「お寿司」でした。

2014年1月11日土曜日

あけましておめでとう

首都高速の高架が見える川沿いのベンチで考えるふりをしている。

「あけましておめでとうございます。本年もひとつ」

感じるのは歯のうずき。肌を刺す1月の風の冷たさ。
高速道路が視界の隅で交差する。車の走行音が途切れることはない。

ランチ時、川沿いではサラリーマンが革靴をスニーカーに履き替え、走っているふりをしている。季節を問わず往来する観光船が今日も川を遡上している。

「おめでたくない人も、本年もひとつ」

年賀状に東北のまつりの写真をプリントして送ったら、東京の秋祭り?と返事がきた。
来年から、年賀状は往信・復信スタイルでいこうと思う。