2014年2月16日日曜日

青蛙おのれもペンキぬりたてか

今日、ユリイカの最新号を読んでいて、芥川龍之介(俳号は餓鬼)によるこの俳句に元ネタがあったということを知り、軽く衝撃を受けている。元ネタはルナールの『博物誌』。ネットで調べてみると、そのようなことはもう周知の事実のようで、なんというか。

この句が初夏あたりに詠まれたものだとしたら、雪降るつもるこの時期に取り上げるのは全くもって季節感のない愚かな行為なのかもしれない。季節感。日本では(日本人は、とは言いたくない)俳句を詠まずとも、日々の生活のなかでとても大切にされている感覚で、なかば義務めいたところもある。

スーパーの幟を見ていても、それはよく分かる。クリスマスケーキに鶏のもも肉の照焼きにと大々的にクリスマス商材を売り出していても、25日を過ぎてまだ店頭に出していたら野暮で愚かだと思われてしまう。正月が過ぎると恵方巻きを食べましょう(食べないなんてナシですよ!)とばかりにチラシやポスターで予約を訴えかけ、七色の具材を入れた太巻きを頬張るよう、なかば強制的に迫ってくる(情報とは命令のことである、と書いた哲学者もいたが)。関西地方にある僕の実家では、節分になると太巻きを食べる習慣があったが、それを恵方巻きと言ったかは記憶が定かでない。

とりとめがなくなってしまったが、僕が今回書き留めておきたかったのは、芥川による上記の句が作家本人の独創ではなかったということである。作家というのは知れば知るほどそのイメージに人間味が加わっていくということなのか、なんなのか。そのこと自体は、決して悪いことではないのだけれど。

ところで、俳句というのは写真に似ていると僕は常々思っている。なぜカメラや写真が日本でこんなに隆盛し、春になれば桜、秋になれば紅葉の写真が大量に生成されるのか。その理由の一端がここにあるように思うのだが、そのことについて考えると本当にとりとめがなくなってしまいそうなので、今回はこのあたりにて擱筆。

2014年2月11日火曜日

散歩追考

パーカーを着て、その上に内側がフリース、外側がコットンとポリエステルの混合生地のブルゾンを羽織る。外は限りなく寒い。筋トレのように毎日を積み重ねていける人には、このようなどうしようもなく気持ちのふさぐ、雪が積もったあとの曇り空の一日でもなんてことないのだろう。うたかたの日々、ではないが、ただ泡がはじけるように一日一日をやり過ごす人間にとって、こういう日はちょっとこたえるものだ。まして、それがビールの泡ともなれば、もう目も当てられない。

散歩はいい。まず目的地を決める必要がないから気が楽だ。見慣れた道を歩くときは、考え事に集中することができるし、商店や家々のちょっとした変化を楽しみつつパトロールをして一仕事終えた気分にもなれる。あるラジオ番組で、久米宏と大滝詠一が仕事の定義について語っていて、物体がある地点からある地点へと動くこともひとつの仕事(単位はジュール)だと言っていたが、それにならえばこれも立派な仕事だ。

もちろん、知らない道を歩いてみるのもいい。ただし、やり過ぎないことが肝心である。僕なんかは、つい引き返すのが惜しくなってどんどん歩くうち、帰り方が分からなくなって、くたびれ果ててしまうことがある。

この前、といっても去年の九月のことだが、サンダル履きのままふらふらと夜道を歩いていたら、パトカーが寄ってきて職務質問されたあげく、軽く引ったくり犯の疑いをかけられてしまった。その犯人は白いTシャツにジーパン姿だったらしく、僕もちょうどそんな格好をしていたのだ(そんな人間そこら中にいるだろ!と思ったが、あいにくその夜はちょっと肌寒かった)。さすがに足下のサンダルを見て逃走中の犯人でないことがわかったらしく、謝って去っていたけれど、住所はしっかり聞かれた。散歩もいいことばかりじゃない。

さて、ブルゾンを羽織った僕は、自転車にまたがり、駅前のコーヒーチェーンへと向かった。散歩はその文字面とは裏腹に、大変包容力のある言葉なのだった。有意義で充実した一日の締めくくりとして、今日はビールを飲むか。

2014年2月2日日曜日

かつて、歩くことについて

かつて、歩くことについて考えていた。
じっくり考えるとか、科学的に考えるというわけではない。

歩くことと記憶。
歩くことが習慣になるにつれ、自動化する足の動きが気になっていた。
それで、やれ身体論だ、アフォーダンスだといったような本を読み、気に入った部分を見つけては悦に入っていたのだが、それっきりになっていたのだった。

道は足裏によって記憶されるのではないか。
アスファルトを踏みしめるスニーカー。こつこつと規則正しく音を立てる革靴。
何かを踏みつけたときの違和感と同時に起こるある種の罪悪感(ねこふんじゃった)。
しかし、私たちは歩いているとき、必ず何かを踏みつけているものなのだ。

一度は地図を見ながら歩き、ついで景色を確認しながら歩いた道も、気がつけば何の意識もせずに歩いてしまっている。

歩くことの身体化?
意識の外で自動的に運ばれていくという、歩くことのありよう。
考えるほどに不思議な気持ちになった。

通勤路や通学路。あるいは、病院や映画館への通い路。
そういえば中学や高校の頃は、自転車に乗って通っていたか……

でも、それならばタイヤが、それを操作する手や足の拡張として
道を記憶していた、と考えるのは無理筋だろうか。