消費税増税のファーストエピソード、「3%増悪」を前にしてというわけでは決してないのだ、と自分には言い聞かせている。いや、実際のところ、ここにきて電化製品を中心に身の回りのものにガタがきだしているのは事実なのだ。
たとえば、洗濯機。たとえば、Mac。
というわけで、今日(日曜)は、Mac mini(early 2009)の内蔵ハードディスクドライブを自力で換装しながら、新しい洗濯機が届き、大学進学以来十数年軒を同じくした(最初は玄関先だったけれど)洗濯機が引き取られていくのを待つ一日だった。ここで、洗濯機と私、というテーマで一席ぶつこともできなくはない(しないけど)。
Macのデータを移行しているときに、昔撮った写真が目にとまった。8年くらい前の携帯電話で撮った写真、いわゆる写メールだ。画質、サイズともに今のスマートフォンに比べれば、というか比べものにならないほど貧弱で、携帯のディスプレイで表示し、携帯のメールに添付することのみをほぼ目的とした画像。
カメラ機能がついた携帯電話を始めて手にしたとき、うれしくて、目的もなくそこら中を撮ってまわったものだ。僕自身、ちょうど写真に興味が出始めたころだったのかもしれない。ポラロイドを手にしたときも、同じように身の回りのものを撮りまくった。撮ったものがすぐディスプレイされる喜び。
それで今日、Macに入っていた写メールをながめていて、なつかしさとともに、胸をこみ上げる何かがあった。祖父の死の間際、親族が集まって「待っている」のをよそ目に、電車を乗りついで行った海で撮った写真。大学の図書館の入り口に差す西日。アルバイトをしていた映画館の窓からみえる雪につつまれた街並み。
撮影者がある種の感情を呼び起こされるのは、写真であれば当然だといえばそれまでなのだが、僕は写メールをながめていて、そうした写真の特性だけでは説明できないものを感じていた。そう、写メール自体がなつかしいのだ。
写真がほぼデジタルに移行し、もう「それは、かつてあった」ではなくなったとか、「ディスプレイ上では、常に現在であり続ける(動画の一時停止のようなものとして)」だとか、言われてきた。少なくとも、数年前は言われていたと思う。
けれど、画像はいつ見られても同じように受け取られるわけではなく、フォーマットとともに古び、それが過去のしるしとして画像に刻まれることになるんじゃないか。十年にも満たない昔のテクノロジーがもう、なつかしい。データであったとしてもその固有性、というか手触り、というかモノとしての存在感、みたいなものが失われるわけじゃないんだ。そんなことを思った日曜の午後だった。
ところで、写メールってもう死語なんだろうか?
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